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映画「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」感想

2012年のアカデミー賞発表の際、町山智浩さんが「ヘルプ」という映画を何度か口にして気になったのとアカデミー賞助演女優賞を獲得したことで、どんな話か全く知らないけど見にいってみようということで劇場へ。動機づけはそんな所。

もちろん、ネタバレで感想述べて参ります。

 

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あらすじは、wikiさんから引っ張ってくる。 

1960年代前半。大学を卒業したユージニア(愛称スキーター)はライターを志し、故郷のミシシッピ州ジャクソンに戻った。故郷の友人たちは皆、結婚、出産をしており、家事や育児を黒人メイドたちに任せきった気楽な生活を送っている。友人の一人ヒリーは、病気がうつると信じ込んでメイドのトイレを屋外に作るべきだと主張する。スキーターは友人たちの黒人メイドに対する態度に嫌悪感を覚える。また、自らも黒人メイド、コンスタンティンに育てられたスキーターは、大好きなコンスタンティンが退職し何も告げずにシカゴへ去っていることに疑念を抱くが、母は取り合わない。

スキーターは、ローカル新聞の家庭欄で家事の相談に代役で回答することになり、友人エリザベスのメイド、エイブリーンに手伝ってもらうことにする。エイブリーンは優秀だった一人息子を不幸な事故で亡くして以来、子守り相手の子供以外には心を開かない。一人のライターとして黒人メイドたちの真実を著す責任を感じたスキーターは、エイブリーンを熱心に説得、密かに取材を始めるが、その他のメイドたちは報復を恐れて固く口を閉ざしてしまう。

そんな折、ヒリーのメイド、ミニーは、ヒリーの家のトイレを使ったことで解雇される。怒ったミニーがスキーターの取材に参加することになった。また、ヒリーが雇った新しいメイド、ユール・メイが拾った指輪を質に入れて逮捕されたことに憤慨したメイドたちもまた、自らの経験を語り始めた…。

 

 では感想いきます。

ヘルプ。という映画タイトルを聞いて、助けて!という言葉が一番に浮かび視聴前の黒人メイドの劣悪な環境告白から助けて!というサインだろうと思っていたが、このヘルプは「お手伝い」という意味合いだ。お手伝い・・・メイドのイメージはお堅い言葉を用いて真摯に主人に仕える人というイメージを持っている。映画を見ていると間違ってはいない。彼女達は主人である家の人達に奴隷の様に扱われているが無表情で仕事をこなしている。

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だが、彼女達は同じ黒人メイドの前では冗談を言ったり、仕えている奥様の悪口を言ったり人間らしい面がようやく見える。これはメイドの仕事をしている時が人間に見えていない、つまり黒人への人権がない、人間のように扱われていない状況が透かして見える。この映画で語られている黒人差別は、白人と一緒のトイレを使えない、黒人は白人が使っている道路を通るな遠回りしろ、バスも黒人と白人で別々、メイドは玄関から入らず勝手口から入ってこい、そして物語の舞台ミシシッピ州では黒人の地位向上の活動を行なってはいけない。ということまであった。

深刻な映画だこれは。差別を見せつけられると視聴者は、こんなこといけないやってはいけない。問題だ。という態度で入り込んでしまう。主人公の女性は、差別されているのに法で地位向上活動を行なってはいけないことと差別主義者からの攻撃に怯え、中々黒人メイド達の置かれている状況を語る人がいない中でようやく一人見つけインタビューを成功させた時、主人公と視聴者は深刻な映画(もちろん差別の話なので深刻は深刻なのだが)から少し立ち位置が変わる。

語るメイドは、話すことが苦手だから文字にした方が得意ということで手帳に記した自分の今までを読み始める。そこで思い出したように育てた白人の子供のエピソードを手帳から「目を離して語る」。白人の子供がメイドが何故黒いのかと尋ねたら、コーヒーを飲み過ぎたからよと話すメイドは笑っていた。

主人公、もちろん視聴者も黒人が今までされた酷いことを聞かされると思っていたので遅れて笑う。(実際このエピソードが笑えるか別にしてね。今と笑いのセンスが違うのでので)

話すことが苦手というのも、白人と対面して話すことが苦手なのだろう。実際、黒人とはペラペラ話している。そんな彼女が、手帳から目を話して語るこのシーンは主人公に心を開き始めたシーン。と、ともにこの映画が単なる深刻な差別の歴史を描くものじゃなくコメディタッチでお送りしますよというシーンでもある。

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映画冒頭、主人公がメイドへの質問で自分の子供と、メイドとしてつきっきりで育てた白人の子供、どちらを愛しているかというものにメイドは答えられなかった。

冒頭なのでそんなもん差別しまくっている白人の子供なんか愛せられっか、でもでも子供に罪はない。という意図で答えられなかったかと思った。

だが、終盤追い出される出ていく時メイドは白人の子供のことを、私の子供と言うのだ。彼女は単純に比較できなかったのだ。両方自分の子供なのだから。この場合、自分の子供のように育てたというニュアンスが正しくないように思える。それは、母親である白人女性達の育児放棄からである。メイドが前日変えたオムツから次の日家に来てオムツ変えるまでほったらかし。トイレも一人で出来無い子供を、メイドが頑張って出来るようにする。着替えもご飯も任せっきり。

何より、母親が愛情を注いでいない。メイドは子供の目線、座ってしっかり目線を合わしてあなたは賢い子大切な子と話かけ抱きしめキスをする。これが一番大切だと思う。メイドが出ていく時も当然、母親よりメイドに懐いているのがよくわかる。ノドが痛い時、誰に助けを求めればいいのか子供は理解しているのだ。母親は友人の手前、黒人メイドを追い出したのが核心ではない。子供が自分より黒人メイドに懐いてることに嫉妬したから追い出したのだ。

物語上で黒人差別を声高に訴える女も生みの母親を老人ホームへ送るのは、生みの母親へ愛情がそれほどないからではないか。子供の頃黒人メイドに育てられた設定だったかどうかは正直覚えてないのだけれど・・・

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上記のように黒人メイドから見た子供の話とは別に、白人から見た黒人メイドの話もしよう。基本は人権無視の奴隷だ。だが、この街で同世代からハブられている金髪ボインさんがいるが彼女は何人か黒人メイドに断られようやく働いてくれるメイドと、同じ場所でご飯を一緒に食べたりする。

差別していないということだ。それが彼女がハブられ友達もいないから仲良くするのか、または変わり者だから価値観が違うからなのか。働いてくれると決まった場面、ハグするぐらいだから差別意識はないのかもしれない。黒人差別自体があることは知っていそうだが。悲しいかな、変わり者にしか優しくされないってのが嫌ですねぇ。それだけどっちの価値観が一般的か差別な日常だったか浮き彫りになるのだけれど。

最終的に、金髪ボインさんの旦那も理解ある人でご飯招待してくれたが本編で男性はちょっとしか出てこない。そういえば、あるメイドが子供を大学に行かせたいので金を貸して欲しいと奥様に朝食でお願いする。その場面、旦那は仕事に遅刻するといって早々席を外すのだ!この男を除外する構成がより女、母親ってのを見せたいんだなぁと思います。男は家の中のお話はご勘弁。だが女はその家のことさえ何もせず、黒人の女に任せる。終盤、真実を知った時主人公は彼女を殺したのはママだと宣告するなんて、生みの母親が育ての母親を殺したというのが一番くるものがある。

しっかし、白人達はトイレは別々、食事の皿も黒人と白人別々にして、自分と血がつながっている子供は黒人に触らせ育てている。これが不思議だ。自分のことだけなのだろう。若く結婚して家に入りメイドに任せっきりで自分は友人ん所へ行きトランプ、黒人差別素案だして政治きどり下を見て自分たちが外で働けない男女差別は自分のことなのに目を向けていない。深刻な話だと思った映画がコメディタッチで描かれる所もあったりチョコパイのくだりで、ざまぁみろ!と気持よくなりますが話が長いと感じたのは椅子があまりよくなくて、胴長の俺はケツが痛かったからでしょう。